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アメリカ合衆国最初の皇帝。人々に愛された男『ジョシュア・ノートン』

長いアメリカの歴史で唯一「皇帝」になった男がいます。その名はジョシュア・ノートン。今回はアメリカ合衆国最初にして唯一の皇帝、ノートンの生涯に触れていきます。

ノートンの半生

ノートンのは秘密に包まれた人物であり、出生がイングランドであるという事以外は明確な情報がありません。1818年生まれとも、1818年生まれともいわれています。

そんなノートンは幼少期南アフリカのイギリス植民地で過ごしていたそうです。裕福な家に生まれたノートンは、1849年父親から4万ドル相当の資産を受け継ぎ、サンフランシスコに移住し不動産投資を始めます。

この事業は大成功を収め、1850年代前半には実に総資産25万ドルにもなったそうです。

この年、中国が飢饉で米の輸出を禁止。これにより米の価格が高騰しました。これを商機と見たノートンは米の買い占めを開始。しかしこれは大外れ。これによって全資産を失ったノートンは1858年破産申告を出し、失踪してしまいます。

ノートン皇帝を自称する

失踪して1年後、「自発的亡命」をいえサンフランシスコに戻ったノートン。彼は合衆国の政治体制には不備があると考え、絶対君主制を導入するべきだと考えていました。そして自らが皇帝になろうと思ったのです。

1859年9月17日、彼はサンフランシスコの新聞各社に手紙を送りました。その内容は

『大多数の合衆国の市民の懇情により、喜望峰なるアルゴア湾より来りて過去9年と10カ月の間サンフランシスコに在りし余、ジョシュア・ノートンはこの合衆国の皇帝たることを自ら宣言し布告す』

この手紙を受け取った新聞社は面白がって「ジョシュア・ノートン1世が皇帝に即位」という内容の記事を新聞に載せてしまいます。

皇帝の『勅令』

ノートン1世の執務は主に新聞社を通じた『勅令』によって行われました。彼はアメリカ議会に解散を命じましたが、議会はこれを無視。陸軍にこの「反逆者たち」の制圧を命じましたが、これも無視されました。

他にも国際連盟の設立、宗教間の紛争の禁止、オークランドとサンフランシスコを結ぶ橋の建設などを命じましたが、どれも受け入れられませんでした。

皇帝の生活

ノートン1世の住まいはワンルームのアパートでした。服装は「献上された」金モール付きの凝った青い軍服。

家臣はラザルスとブマーの2匹の雑種犬で、市民の視察と称しては町中を練り歩いたり、新聞社に勅令を出したりしていました。

デモの鎮圧

ノートン1世は現在で言うところの「統合失調症」でないかと言われています。しかし誇大妄想に取りつかれながらも彼本来の性格が失われておらず、ノートン1世はとても温和で争いを好まない性格でした。

ノートン1世は南北戦争中、何度か戦争停止を命じる勅令をだし、また中国系労働者に対するデモで衝突が起きそうになった時には、デモ隊と鎮圧隊の間に入り、頭をたれ何度も主の祈りを口ずさみました。

それを聞いた暴徒たちは自分たちを恥じて解散してしまったと言われています

警官による「大逆罪」

1867年アーマンド・バービアがノートン1世に精神病の治療を受けさせようとしたところ逮捕した事件。

この逮捕はサンフランシスコ市民から大きな反発が起きました。警察署長パトリック・クロウリーは警察として公式に謝罪、ノートン1世を釈放。ノートン1世は寛大にもこの「大逆罪」に「恩赦」を下しました。

この一件以降、警官たちは「皇帝」に会ったときは必ず敬礼をしたと言います。

人々から敬愛された「皇帝」

大衆は皆「皇帝ノートン1世」を敬愛していました。彼は無一文であったにも関わらず高級レストランで食事をしていましたが、レストランのオーナーは嫌がるところか「合衆国皇帝ノートン1世陛下御用達」のプレートを玄関に飾りました。

またセントラルパシフィック鉄道の食堂車で食事をした際、支払いを請求した鉄道会社に「勅令」で営業停止を命令。

この際多くの市民が「皇帝」を支持、驚いた鉄道会社はノートン1世に金色の終身無料パスを贈呈し、謝罪したそう。

皇帝とお金

「帝国政府」発行の10ドル国債

先ほども言った通りノートン1世は無一文でした。そこで彼は独自の紙幣を発行。紙幣は50セントから5ドルまでの額面が発行されました。

しかもこの紙幣、完全に地域経済において完全に認められていました。

皇帝の噂

晩年になると、「ノートン1世は本当に高貴な出の人間ではないか?」と噂がたつようになりました。

ある人は「ナポレオン3世の子」だといい、またある人は「ヴィクトリア女王と結婚しようとしている」と噂しました。また「本当は大金持ちだが貧民に対する同情から貧乏を装っている」というものまで。

ノートン1世崩御。最期まで市民に愛された「皇帝」

1880年1月8日、ノートン1世は科学アカデミーの講演に向かう途中倒れ、警官が馬車に救援を頼むも病院に着く前に息を引き取りました。

翌日『サンフラシスコ・クロニクル』は「 Le Roi Est Mort(王崩御ス 」というフランス語の見出しで一面に追悼文を載せました。

またサンフランシスコのもう一つの主要紙「モーニング・コール」も追悼文を掲載。

なんと州外である「ニューヨーク・タイムス」にまで追悼記事が掲載されました。

ノートン1世はお金がなかったため、貧民墓地への埋葬がやっとだったのですが、ビジネスマンたちの集団「パシフィック・クラブ」が資金集めに奔走した結果、盛大な式典が催されました。

ノートン1世の葬儀には3万人の人々が訪れ、棺につづく葬列は2マイルに及んだといいます。

こうして多くの市民に惜しまれながら、ノートン1世は天国へと旅立っていったのでした。

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