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視覚と聴覚を失いながらも、懸命に生きた女性。「奇跡の人」ヘレン・ケラー

ヘレン・ケラーと言えば重度の障害や、サリバン先生とのエピソードが有名ですが、一体どんな事をした人なのか詳しく知る人は少ないのではないでしょうか?

そこで今回は「奇跡の人」ヘレン・ケラーの生涯に触れていこうと思います。

ヘレン・ケラー誕生

ヘレン・ケラーは1880年、アメリカ・アラバマ州に生まれました。生後6カ月で「こんにちは」と話し、一歳の頃にはヨチヨチ歩き出すほど、成長の早い子供だったそうです。

そんなヘレンに試練が訪れます。1歳7カ月の頃、原因不明の高熱と腹痛に襲われ生死の境をさまよいます。

一命はとりとめたものの、視覚と聴覚を失ってしまいました。当然言葉もまともに話せません。しかし、身振り手振りで意味は通じていたため、両親は希望を失わず、ヘレンの生きる道を模索しました。

サリバン先生との出会い

今とは違い、昔のアメリカには障害者教育等はない時代でした。それでも両親は諦めませんでした。ある日、ヘレンの父ケラーは電話の発明者であり障害者教育にも力を入れていたアレキサンダー・グラハム・ベルの元を訪れました。

そしてグラハムの紹介により、バーキンス盲学校の校長アナグノス氏に手紙を出し、家庭教師の斡旋を依頼。

そこで推薦されたのが、その後50年間もヘレンを支え続けた『偉大なる教師』アン・サリバンでした。

ヘレンとサリバン先生

サリバン先生はまずパーキンス盲学校から贈られた人形をヘレンに抱かせ、指文字で「DOLL」と書きました。当然ヘレンは何のことだか解りません。

しかし、サリバン先生が何度も繰り返す内にヘレンはそれが自分の抱いてるものだという事を覚え、2週間目には全てのものには名前があるという事を理解しました。

もともと6カ月で言葉が話せたヘレン。その知力の高さもさることながら、サリバン先生の手腕の高さも相まって、3カ月もすると300もの言葉を覚えたと言います。

ヘレン、言葉を話す

1890年、ヘレン11歳の春。彼女の人生で一生忘れられないであろう出来事が起きました。

色々な知識を吸収する度に「話したい」という思いが強くなっていったヘレン。彼女は言葉を話すために努力しました。

まずは自分ののどに手を当て、片手を唇に触れて声を出そうとしました。そして今度はサリバン先生の口の中に指を突っ込み話すときの舌の位置も探りました。

周囲の人々は出来もしないことを必死にやろうとするヘレンを憐れみましたが、彼女は諦めませんでした。

当時ノルウェーで聴覚障碍者の発声研究が成功したことを知ると、サリバン先生と共にボストンのホレースマン聾学校へ。そこの校長であったサラー・フラー女史に発音法を学ぶのでした。

大変な努力の末、言葉を話せるようになったヘレン。最初に話した言葉は「It is warm today(今日は暖かいです)」だったそうです。

止まらない向学心

ヘレンの向学心は留まることを知らず、14歳でニューヨークのライト・ヒューマソン聾学校に入学し、 16歳の時にはケンブリッジ女学院に入学。

しかしサリバン先生とケンブリッジ女学院の校長のトラブルにより 退学になってしまいました。

それでもヘレンは止まりません。今度はラドクリフ・カレッジを目指しました。

ラドクリフ・カレッジは名門ハーバード大学の女学校版でハーバード卒業者と同等とみなされる程のところでした。

周りの反対を押し切り、ヘレンは無事合格。大学生活をしながら、お金を稼ぐために執筆活動もこなしていました。

障害者の希望

卒業後は障碍者の為に人生を捧げることを決めたヘレン。26歳の時にはマサチューセッツ州が設立した盲人教育委員会の委員になりました。

しかし、その仕事は2年で辞任。その後はサリバン先生の夫で2人の良き理解者でもあるジョンと共に、底辺で苦しむ人の為に社会党に参加。

「貧困が社会の不平等と不幸を生む」 との信念の元、婦人参政権運動や公民権運動など多くの人権運動に参加しました。

1914年、経済的に苦しかったヘレンは講演で生活費を稼ぐ事を決心。ヘレンの発音は聴衆には理解できませんでしたが、ヘレンの思いをサリバン先生が通訳することで汲み取り公演は大盛況。

ヘレンはどこに行っても皆から受け入れられるようになりました。

アメリカ盲人援護協会の顔に

1921年、ヘレンの提案でアメリカ盲人援護協会が設立されます。

しかしサリバン先生の健康状態は悪化。1924年頃にはほとんど視力を失ってしまいました。それでもヘレンと共に支援者を求めて各地を回りました。

3年間に250回以上の講演、25万人以上に声をかけたという2人の活動は実を結び、ヘンリー・フォードロックフェラーを始めとした有力者が次々と寄付。最終的には100万ドル以上が集まりました。

ヘレンはこれまで欧州式、米国式といくつにも分かれていた点字を1つに統合すべく尽力。そして1932年、ヘレン52歳の時にルイ・ブライユが作った6点式の点字が国際標準化しました。

ヘレン来日、サリバン先生との別れ

ヘレン56歳の時、最大の理解者であったサリバン先生が死去。70歳でした。

この時、ヘレンの噂を聞きつけた日本人の岩橋武夫はヘレンに訪日を願う手紙を何度も出していました。

サリバン先生は生前、ヘレンに「日本にいってあげなさい」と語っていたため、ヘレンは悲しみのまま訪日。

4カ月の滞在で日本中を巡ったヘレン。日本中でヘレン・ケラーブームを起こしました。

岩崎氏はヘレンを厳島神社へ案内。この時、ヘレンの悲しみをくみ取った岩崎氏はサリバン先生の追悼の思いを込めて石灯篭に灯りを灯し、ヘレンはその気持ちに感動し、涙したと言います。

その後1937年に長崎、1951年にはアジア盲人福祉会議の為に計3回訪日しました。

ヘレンの死

1968年6月1日、ヘレンは87歳でその生涯を終えました。

視覚と聴覚を失いながらも不屈の精神で生き、多くの障害者の希望となった「奇跡の人」ヘレン・ケラー。

その功績を称え、日本政府からは勲一等瑞宝章が贈られました。

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