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その遺産約70億円!?金と権力を追い求めた女『日野富子』

日野富子といえば「日本三大悪女」の1人として数えられ「稀代の悪妻」とも言われている人物です。どうして彼女は「悪女」と呼ばれるようになったのか。今回の記事ではその理由を紹介していきます。

名家に生まれ将軍足利義政に嫁ぐ

永享12年(1440年)、藤原氏につながる名門・日野家に生まれた富子は、16歳で8代将軍・義政に嫁ぎました。

19歳の時、待望の第一子が生まれるもその日のうちに亡くなってしまいました。

普通なら子供が亡くなったらショックを受けふさぎこむものですが、富子は違いました。義政の乳母・今参局(いままいりのつぼね)に「お前が呪いをかけたせいだ」と言い琵琶湖沖島に流罪。側室4人も追放してしまいます。

待望の跡継ぎ誕生。しかし・・・

その後、富子は子供を産むも2人共女の子でした。なかなか跡継ぎ産まれなかった事から、夫の義政は実弟で仏門に入っていた義尋を環俗(僧侶を辞める事)、名を足利義視と改めさせて細川勝元を後見人に将軍後継者としました。

しかし、その翌年富子義尚を出産。溺愛する息子を将軍とすべく後見を有力守護大名である山名宗全に頼みます。

義観と義尚、そして山名と細川の対立など、色々な問題が複雑に絡み合った結果、かの有名な応仁の乱が勃発してしまいます。

応仁の乱勃発

跡継ぎ問題をきっかけに巻き起こった「応仁の乱」。実に11年も続いたこの争いの最中、富子は驚くべき行動に出ました。

細川勝元を総大将とする東軍についていた富子でしたが、なんと東西両軍に多数の金銭の貸付を行っていたのです。

それだけではなく、米の投機など徹底的に蓄財に励みました。その結果増えた資産は現在の価値にして約60億円になるとも言われています。

争いの最中にも資金集めに奔走した富子。この間後土御門天皇との密通の噂が流れ、夫義政との関係は冷え切ってものになりました。

応仁の乱終戦

富子と義政の関係が悪化していく一方、「応仁の乱」には大きな動きが。山名宗全と細川勝元が他界してしまうのです。

こうした変化の中、義政は隠居し、義尚が元服。義直は9代将軍に就任し、兄の日野勝光が新将軍代に就きました。

その後義政は1475年小河御所を建設して1人で移り住むことになり、1476年には勝光が死去。富子が権力を握時るがやってきました。

そして翌年「応仁の乱」は終焉を迎え、11年に及ぶ大乱は終わりの時を迎えました。

京都七口の関所・民衆による一揆

「応仁の乱」が終わると、富子は京都七口に「関所」を設置。関所を設置した目的は「内裏の修復費」、「諸例祭の費用を賄うため」でした。

しかし実際にはそのお金は殆どが富子の懐へ。こうした噂を聞いた民衆達は怒り爆発。1480年徳政一揆を起こし、関所を破壊。

しかし、富子は怯むことなく一揆を弾圧。そして一揆が収まるとすぐさま関所を再設置しました。

しかしこうした富子の行動は民衆だけでなく公家からも恨みを買う事に。あまりの金の亡者ぶりに公家も嫌気がさしたのでしょうか。

家族との対立

富子のこうした行動はやがて家族とも対立することに。自分が将軍へと押し上げた息子・義尚は成長するにつれ富子を疎ましく思うようになり、1483年に伊勢貞宗低に移転。

その後は酒浸りの日々を送るようになり、1489年六角高瀬討伐(長亭・延徳の乱)の遠征の途中、25歳の若さで亡くなりました。

一時権力を失い、息子の死にショックを受けた富子ですが、すぐに立ち直ると義視と自分の妹の間に生まれた足利義材(よしたね、後に義植と改名)。を将軍にすべく義政と協議、4月に合意を得ます。

立ち直りの速さもすごいですが、かつて後継者争いで対立した相手の息子を将軍にするとはなんとも図太いというか、なんというか・・・。

そして義政が亡くなった1490年義材が10代将軍に就任。後見人は義視がつくことに。

しかし義視は権力を持つと富子と対立。義視が亡くなると、今度は義材とも対立してしまいました。

クーデター、そして死去

家族とも対立した富子は1493年、菅領・細川政元共にクーデターをおこします。そして河内国(現在の大阪東部)に出征していた義材を追放。

幕政の主導権争いが原因で起こったこの騒動。これにより義政の甥、堀越公方・足利政知の息子、足利義澄が11代将軍になりました。(明応の政変)

しかしその3年後1496年に57歳で他界。金と権力を追い求めていた日野富子。生涯で稼いだお金は約70億円といわれています。

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