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「エレキテル」「土用の丑の日だけじゃない!」多彩な才能を持つ男『平賀源内』

皆さんは「平賀源内」と聞くとどんなイメージを抱きますか?エレキテル?うなぎ?それだけではありません。彼は様々な分野で活躍したすごい人なのです。

今回は「江戸時代のレオナルド・ダヴィンチ」と言われた平賀源内についてご紹介します。

平賀源内誕生~浪人になるまで

讃岐国(現在の香川県)の高松藩、足軽身分の家に生まれた源内。11歳にして掛け軸に細工をして徳利を置くと掛け軸の天神様が赤くなるという仕掛け『お神酒天神』を作ったそうです。その評判がもととなり13歳で藩医の元本草学と儒学を学びました。

そして24歳になった源内は長崎の出島で1年間オランダ語、医学、油絵を学びます。この時、父の死により跡目を継ぎますが、妹に婿養子を迎えさせて家督を放棄しました。

家督を放棄した源内は更なる勉強の為、京都・江戸に留学。その後高松藩に再登用されましたが、藩の許可を得ないと国内外の行き来が出来ないことに不便を感じ、脱藩しました。

この時源内は高松藩から『仕官御構(しかんおしまい)』(他藩で役人になることを禁止する事)に処されます。浪人になった源内は自らを「天竺浪人」と称し、様々な事に手を出しました。

その①殖産事業家

当時鎖国中だった日本。それでも輸入は行われており、主なものは砂糖や薬品、日用品でした。その支払いは主に金銀銅。しかし、資源は無尽蔵にあるわけではなく、当時の学者・政治家は頭を悩ませていました。そして、彼らが得た結論は「輸入に頼らず自分たちでつくればいい」でした。

源内もそんな一人でありました。長崎で得た知識を活かし、中国の陶器の代替え品を目指したり(源内焼)、羊を飼育し羅紗(ラシャ)の国産化を目指したりしました。(国倫織)

しかし、スポンサーである幕府は資金を援助してくれず、計画は頓挫しました。

その②鉱山技師

殖産事業の中で源内が特に力を入れていたのが鉱山でした。各地の鉱山を巡っては発掘や作業の手伝いをしました。

しかし、秋田で開発したトタン山(亜鉛鉱)が実はマンガン鉱山だったり、同じく秋田で彼が伝えた「山下流銀絞り法」があまり役に立たなかったりとその知識は若干怪しいものでした。

ただ、失敗だけではありません。源内が携わった秩父の鉱山からは石綿(アスベスト)が発見され、現在でもニッチツ秩父鉱山として操業しています(現在は石炭を掘っています)。

その③本草学者

源内の本職。薬のもとになる薬草や鉱物、先述した石綿(アスベスト)の発見や貝殻採集に絵具等非常に幅広く、植物がメインであった本草学を現代科学へ通じる博物学へと高めたと評されています。

また江戸で物産会を開き、その中から特異なものを選んだ 『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』という本もだしています。

その④戯作者

風来山人のペンネームで様々な作品を執筆。教訓じみた話の多かった戯作に「読み物としての面白さ」をプラスしたところ、これが大ヒット。

なかでも 『風流志道軒伝』 は「羽根扇で飛んで世界を回る」という内容から「和製ガリバー旅行記」とも評されています。

しかし、あくまで博物学者として身を立てたかった源内としては戯作はあくまで小遣い稼ぎのものであったようです。

その⑤建築デザイナー

源内はデザイナーとしての顔ももっており、秩父で鉱山開発をしていた際、その住居を自分でデザインしたそうです。

とある大名に見積もりを頼まれた際「自分ならこの額の2,3割でできる」と豪語。しかし、これが源内の悲劇に繋がるのでした。

源内の悲運

先述の大名の別荘話の際、大工ともめた源内。話し合いの末3者共同で仕事をやる事になりました。

ある日、大工と酒を飲んだ源内。酔っていたために修理計画書を盗まれたと勘違い。大工の棟梁2人を斬り殺してしまいます。

しかし修理計画書は自分の手近から出てきてしまいました。後悔しても時すでに遅し。源内は投獄され、そこで破傷風にかかり亡くなりました。享年52歳。

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