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「伊能忠敬」~56歳からの挑戦~

今から200年前。日本中を歩き回り、「大日本沿海輿地全図」を作った伊能忠敬。

彼は現代地図とも殆ど変わらない精巧な地図を作り上げた凄い人です。

しかも地図作りを始めたのは55歳の時でした。

伊能忠敬の半生

延享2年 (1745)2月11日、 上総国山辺郡小関村の名主・小関五郎左衛門の家に生まれた忠孝。幼名は三次郎。

17歳の時、伊能家に婿入り。この時に忠敬と名乗ります。

伊能家は商人だったのですが、経営はあまり上手くいってませんでした。

しかし忠敬の力で10年かけて盛り返します。

忠敬は飢饉のときにも積極的に支援をし、地域では有名な名主として知られます。

そして49歳の時、家督を長男に譲り、自身は江戸へ出て天文・暦学の勉強を始めました。

その時弟子入りしたの高橋至時という天文学者でした。

地図作りのきっかけ

至時は 寛政9年 (1797)、新たな暦である「寛政暦」を作りました。

しかしこれは精度に難がありました。この暦を正確にするためには、地球の直径や緯度、経度を知る必要があったのです。

そこで忠敬はそれらを正確に求める測量方法を思いつきます。

そして至時に正確な値を出すには江戸から蝦夷地までの距離を測ることが必要だと至時に提案しました。

これに賛成した至時。こうして忠敬と至時の旅が始まったのです。この時忠敬55歳でした。

最初の測量

当時の蝦夷はロシアの事もあり、幕府の許可が下りませんでした。

しかし3年後の寛政12年(1800)4月、幕府から測量試みの許可が下りました。

そして寛政12年4月から8カ月かけ蝦夷の地図を完成させました。

第二次~第五次測量

幕府からその測量の正確さを評価された忠敬。第二次測量となる伊豆半島以東の本州東海岸の依頼をされます。

下田~三島へ行き、1度江戸に戻ると今度は房総半島、銚子の測量を行いました。

測量は享和元年(1801)4月~12月の8カ月かかりました。

第三次測量は享和2年(1802)6月、東北日本海沿岸。

第4次測量は享和3年(1803)2月。東海、北陸の測量が開始されました。

そして文化元年(1804)第一~第四次までをまとめた「日本東半部沿海海図」が完成します。

翌年近畿、中国地方をメインとした第五次測量が開始。忠敬は60歳。当時としてはかなりのおじいちゃんです。

第六次~第九次測量

3年後となる文化5年、第六次測量は四国でした。

文化6年(1809)九州地方の第七次測量は病人が出たため途中で断念。

文化8年(1811)11月の第七次測量は前回の続きとして種子島、屋久島、九州北部を巡りました。

第九次測量は文化12年(1816)に行われ、伊豆諸島の測量をしました。

最期の測量、伊能忠敬死去

文化12年(1815年)2月、忠敬は71歳でしたが、第十次測量に参加。江戸府内を測量しました。

測量を終え地図の制作に取り掛かった忠敬。しかし、喘息により文政元年(1818)4月13日にこの世を去りました。

74歳でした。生前からの本人の希望により、すでに他界していた師匠・至時の傍らに葬られました。

「大日本沿海與地全図」と「大日本沿海実測図」

実はこの2つ、忠敬の存命中には完成していませんでした。

友人や門弟達により、忠敬の死去後3年になる文政4年(1821)に完成しています。

そしてその時初めて忠敬の喪が公表されたと言います。

「大日本沿海與地全図」と シーボルト事件

この事件は文政11年(1828)に起きました。

オランダ人シーボルトが当時国禁であった日本地図を持っていたという事件です。

この持っていた地図というのが忠敬の「大日本沿海與地全図」の写しだったのです。

当時の地図と言えば軍事機密。当然厳しい処罰が下され、シーボルトは国外追放。地図を交換した高橋景保は斬首されました。

イギリス人を驚かせた忠敬の地図

文久元年(1861)イギリスの測量船アクティオン号が日本近海を測量しようと来航。

幕府はそんなことをされてはたまらないと、船長に忠敬の地図の縮小版を渡しました。

すると船長は日本にこんな正確な地図があるのかと驚きました。

測量の手間が省けると、駐日イギリス公使を通じてこの地図を借りることを条件に測量を取りやめたそうです。

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