注目キーワード

田舎貴族から皇帝へ「ナポレオン・ポナパルト」

1789年フランス革命によって混乱の最中にあったフランス。そんな中彗星の如く現れ、瞬く間にヨーロッパを征服し、革命後のフランスを統制した男ナポレオン。

フランスの歴史に燦然と輝く大人物である彼は、どんな人物だったのでしょうか?

生い立ち

1769年コルシカ島に生まれたナポレオン。コルシカ島はイタリア半島西にある島なので、ナポレオンも黒髪に黒い眼のラテン系でした。

フランスのブリエンヌ陸軍幼年学校に入学した彼はパリの陸軍士官学校砲兵科へ。

15歳のナポレオン少年は、通常なら卒業に4年かかるところをわずか11カ月で卒業。このころから非凡ぶりを発揮していました。

しかし背が低くコルシカ島なまりをクラスメイトからバカにされていたため、クラスでは1人静かに本を読んで、なるべく目立たないようにしていたそうです。

フランス革命とナポレオン

1789年に起こったフランス革命はルイ16世を処刑し、「絶対王政」を倒すことに成功。

しかし当時は周辺の国家からの圧力、国内の反乱もありフランスはめちゃくちゃでした。

さらに1793年にはロベスピエールを代表とした「ジャコバン派」が反革命派を弾圧し恐怖政治を行いました。この頃民衆は疲れ果て安定を望むようになっていました。

1794年にはテルミドールのクーデターによりロベスピエールが捕らえられ今度は穏健派のテルミドール派が総裁政府を樹立。しかし、フランスの情勢は全く安定しませんでした。

そんな不安定な情勢の中台頭したのがナポレオンです。

1796年、わずか26歳という若さでイタリア遠征の軍司令官に任命され、オーストリアに勝利。

カンポ=フェルミオの条約によりイタリア北部の広大な領土を獲得し、フランスに莫大な国益をもたらしました。

これにより、フランスでの地位を確固たるものにしたナポレオン。

1798年にはエジプト遠征へ。「ピラミッドの戦い」でエジプト軍を撃破します。

しかしイギリス軍によりフランス海軍が敗れた事によりナポレオンはエジプトに孤立してしまいます。

同年12月フランス国内での革命による混乱を鎮圧するため、わずかな側近と共にフランスへ戻ります。

自国へ戻ったナポレオンは「ブルジョワジー」達の支持を受け、「ブリューメルのクーデター」を起こし統領政府を樹立。第一統領に選ばれました。

これによりフランス革命は終わりを告げ、ナポレオンの時代が始まるのでした。

ナポレオン法典

第1統領となったナポレオンは国内でさまざまな改革を行いました。

税制改革に産業復興、銀行の創設やそして「ナポレオン法典」を制定したのもこの時です。

その内容は「私有財産の絶対」「個人意志の尊重」「家族の尊重」を基本原理とするもので、現代の民法の模範ともいわれています。

しかし、ナポレオンが統領になってからは彼を狙った暗殺未遂事件が増加。これに対抗するためナポレオンは独裁色を強めていきました。

皇帝ナポレオン

1804年5月、国民投票と国会の議決により皇帝ナポレオンが誕生。同年12月に戴冠式が行われました。

皇帝ナポレオン1世を脅威に感じたイギリスは3回目となる「対仏同盟」を結成。しかし、ナポレオンはこれら同盟軍を次々撃破。ヨーロッパの大半を支配するほどになりました。

反ナポレオン活動とナポレオンの最期

ナポレオンは征服した国に親族を送り込み血縁による専制君主制を行いました。

しかしこれがフランス国民の反発を招きます。民衆は各地で反乱を起こしました。また民族の独立運動も多発。ヨーロッパ中で起こったこれらの動きにフランス軍はかなりの負担を強いられました。

そして1812年に行ったロシア遠征は冬将軍に苦しめられ大敗。この敗戦で反ナポレオン勢力はさらに勢いを増すことに。

さらに1813年のライプツィヒの戦いでも連合軍に敗北。パリを占拠されてしまいます。

この結果、翌年の1814年にナポレオンは退位。エルバ島に島流しにされました。諦めきれなかったのか、1815年エルバ島を脱出し再度帝位に着くもののワールテローの戦いで敗戦。

ナポレオンの復位は「百日天下」と呼ばれるほどの短いものでした。

その後ナポレオンはセントヘレナ島に幽閉され、その劣悪な環境の中で苦しみながら1821年死去しました。

死因は胃がんと言われていますが、ヒ素による毒殺の可能性も指摘されているそうです。

ナポレオン四代 二人のフランス皇帝と悲運の後継者たち【電子書籍】[ 野村啓介 ]

価格:946円
(2019/11/8 17:38時点)

最新情報をチェックしよう!