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『日本資本主義の父』と呼ばれた男、「渋沢栄一」の生涯と功績

2024年度から発行される新1万円札。その肖像画に選ばれた「渋沢栄一」という人物を皆さんご存知でしょうか?

今回は新1万円札に選ばれた実業家、渋沢栄一の人物像と功績について紹介していきます。

渋沢栄一の人物像

渋沢は江戸時代末期の1840年、埼玉県深見市に生まれました。渋沢家は藍玉(染料の一種)の製造販売や養蚕、米、麦、野菜の生産も手掛けるいわば「豪農」でした。

渋沢も幼い頃から家業を手伝い、14歳の頃には藍葉(藍玉の素材)の仕入れをしており、この時の経験が後の商売人としての才能に繋がっていきました。

20代で討幕思想に染まり、親族とともに高崎城の乗っ取りを企てるものの中止。その後一橋(徳川)慶喜に仕官。

27歳の時慶喜の弟徳川昭武に随行し、渡仏。パリ万国博覧会を見学し、ヨーロッパ諸国を巡った渋沢は先進国の技術や社会に大きな感銘を受けました。

フランスから帰国したもののすでに幕府はなく、渋沢は慶喜のいる静岡へ。その際、慶喜に「これからはお前の道を行きなさい」との言葉を受け、実業家の道へ進むことを決めました。

日本初の株式会社「商法会所」

渋沢はフランスへの渡航で合本組織の存在を知りました。合本組織とは、人々が資金を出し合いこれを資本として事業を展開するというもので、今でいう株式会社でした。

渋沢はそのシステムを日本に持ち込み、それを社会に根付かせ日本の発展に寄与しようと考えました。

その第一歩として1869年(明治2年)1月に静岡藩を巻き込んで「商法会所」を設立。 米穀や茶、蚕糸の買い入れ販売、金融業務をメインにした会社です。

ちなみに出資金は身分に関係なく、あらゆる人から集めたそう。

日本最初の株式会社「商法会所」は順調で、利益を出すことにも成功しました。

実業家の道へ

その後、渋沢は大隈重信の説得により大蔵省に入省。しかし予算編成を巡るいざこざで、大久保利通、大隈重信と対立し、1873年(明治6年)に大蔵省を辞めてしまいます。

1875年(明治8年)には現在の一橋大学の源流、商法講習所(商業学校)を設立。

大蔵省を辞めて間もなく、官僚時代に設立指導していた第一国立銀行(現在のみずほ銀行)の頭取に就任。

実業家の道を歩み始めた渋沢は数々の企業を設立していきました。

帝国ホテル、東京証券取引所、サッポロビール、東京ガス、キリンビール、東洋紡、京阪電気鉄道、王子製紙等、現在もつづく有名企業の設立にも関わっており、 生涯で設立した会社は500以上ともいわれています。

社会貢献活動

渋沢は社会貢献にも熱心な人でした。東京市の要請で養育院(現在の東京都健康長寿医療センター)の院長を務めた他、日本赤十字社、東京慈恵会、癪予防協会の設立にも関与。

関東大震災後の復興の為に、大震災善後会の副会長を務め、寄付金集めにも奔走しました。

また教育にも力をいれており、大倉喜八郎と大倉商業学校(現東京経済大学)の設立に協力。

それだけではありません。国士館の設立・経営や同志社大学設立の為の寄付金集め、そして男尊女卑の脱却から女子の教育の為、伊藤博文、勝海舟らと女子教育奨励会を設立、日本女子大学校東京女学館の設立に携わるなど、「日本の近代化」の為に多くの功績を残しました。

道徳経済合一説

大正5年(1916年)に「論語と算盤」という著書をだした渋沢。著書の中で「道徳経済合一説」を打ち出しました。

その理念とは「富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の道でなければ、その富は完全に永続することができぬ。」というもの。

これは仁義道徳と経済は元来共に進むべきものであり、どちらも欠けてはならない、という考え方で渋沢の生き様そのものでもあります。

渋沢の晩年

財界を引退した渋沢は「渋沢同族株式会社」を設立します。この会社は自分の死後、醜い財産争いを防止するために設立された会社であり、この会社が保有する株は会社の株の2割以下、ほとんどは数パーセントにも満たないものだったそうです。

そして昭和6年(1931年)、「日本資本主義の父」渋沢栄一はこの世を去りました。享年92歳。日本の近代化に尽力した人生でした。

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