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新5000円札の顔、「津田梅子」とはどんな人?

2019年4月、新元号に続き紙幣のデザインが一新される事が発表されたのは、記憶に新しいと思います。

その新紙幣の中で唯一の女性である津田梅子。一体彼女はどんなことをした人なんでしょうか?

わずか6歳でアメリカ留学

1864年に生まれた梅子は、6歳で岩倉使節団の一員としてアメリカに渡ります。

画家のチャールズ・ランマン夫妻に預けられた梅子はワシントン市内で生活。英語やピアノを習いました。

1878年、14歳の頃にはラテン語、フランス語の他、自然科学や心理学、芸術等色々な知識をどん欲に吸収していきました。

日本に帰国

1882年、帰国した梅子はアメリカと日本の違いにショックを受けます。

男女平等とは程遠い明治時代の日本では、梅子が身に着けた知識も生かせませんでした。

しかも幼少からアメリカにいたせいで、日本語は通訳が必要なほどでした。

1883年、伊藤博文の紹介で下田歌子を紹介されます。下田は華族子女を対象にした塾を開いており、梅子もそこで英語教師になりました。

しかし、上流階級の雰囲気になじめなかったようで、この頃にすすめられた縁談を全てことわっています。

あまりにも縁談話が多かったのか、梅子は 「二度と結婚の話はしないでください。話を聞くだけでもうんざりです」と手紙にしたそうです。

この時の経験から梅子は生涯独身を誓いました。

再度の留学

梅子は再びアメリカに行き、今度は生物学を専攻しました。3年間の過程を修了します。

梅子に留学をすすめたアリス・ベーコンは日本女性の研究をしていて、ベーコンが研究を出版した時には手助けをしました。

このことが梅子が女性教育に関心を持った最初のきっかけといいます。

女性の教育のために

大学にアメリカへ留まる事をすすめられた梅子でしたが、誘いを断り帰国。

再び華族女学院に勤めた梅子は教師をつづけながら、自宅で女学生を預かるなど積極的な支援をしていました。

その後、女子大学創設運動や高等女学校令、私立学校令などが公布され、女子教育の機運が高まると教師を辞職。

階級の区別なく全ての女性が教育を受けられる大学「女子英学塾(現在の津田塾大学)」を父や協力者とともに創立しました。

厳しかった英学塾

女性の教育と言えば、今までは礼儀作法がメインでした。しかし、英学塾はレベルの高い自由な教育が受けられる、と瞬く間に評判になります。

しかし、当初はとても厳しかったようで、脱落者が続出したそうです。

そんな女性の為の学校「英学塾」でしたが、外からの干渉を受けないようにするため、スポンサーがおらず、梅子たちは給料ナシで仕事をしていました。

しかし、学生の増加に伴い、費用もかさんでいきました。女性の教育の一般化には成功しましたが、経営は常に苦しかったようです。

晩年

梅子は塾の創成期に体調を崩し、1919年塾長を辞任。長い闘病生活の末、1929年脳出血のため64歳で亡くなりました。

誓いの通り生涯未婚を貫いています。

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