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「偉大な人物」=「偉大な人格者」とは限らない!超オレ様な『リヒャルトワーグナー』

19世紀のドイツを代表する音楽家、ワーグナー。独自の音楽理論から「楽劇」を生み出した天才音楽家です。素晴らしい作品を生み出し熱狂的信者も多かった一方で、そのオレ様すぎる性格で敵も多かった人物です。

今回はそんな「超オレ様男」ワーグナーを紹介します。

若かりし頃のワーグナー

1813年、現在のドイツにあたるザクセン王国ライプツィヒに生まれ、音楽好きの家庭で育ったワーグナー。15歳の頃にヴェートーベンに憧れ、音楽家を志します。

18歳で名門ライプツィヒ大学に入学しますが、すぐに退学。その後はテオドール・ヴァインリヒに師事し、実力をつけていきます。翌年には最初の歌劇『婚礼』を作曲。20歳という若さでヴュルツブルクの市立歌劇場の合唱指揮者になりました。

しかし、この頃から難のあったワーグナー。長続きせずに辞めてしまいました。仕事を辞めた後は各地を転々としながら「劇場指揮者」として指揮活動を行いながらオペラ曲を作りつづけていました。

そして23歳の時、最初の妻であるミンナ・プラナーと結婚。しかし結婚生活はうまくいかず。原因はワーグナーの浪費癖で、稼げないのに贅沢な暮らしをしてはそれを踏み倒しては夜逃げする、という生活を続けていました。

ワーグナー指名手配される

そんなワーグナーですが30歳を過ぎてドレスデンの宮廷音楽長に招かれ、世間に認められるようになりました。

しかしそれも束の間、35歳の時に『ドイツ三月革命』に参加してしまいます。これがきっかけで指名手配されてしまったワーグナー。それを助けてくれたのがフランツ・リストでした。ピアニストとして成功していた彼は偽造パスポートを用意し、スイスへ逃げる手はずを整えてくれ、度々金銭的援助もしてくれました。

スイスへ亡命している間も精力的に作曲活動をしていたワーグナー。代表作の一つ「ローエングリン」もこの頃書いていました。

ちなみにスイスにいた間、複数の女性とアバンチュールをしておりました。後にドイツに置いてきた奥さんと再会しますが、結局ヨリを戻すことはなかったとか。

亡命生活の終わりと2人目の妻

追放令を解かれたワーグナー。この時フランツ・リストの娘で指揮者ハンス・フォン・ビューローの妻であるコジマと不倫していました。

コジマは少女時代からのワーグナーファン。ワーグナーの支持者であったビューローと結婚し2児の母でもありました。ところがワーグナーとも深い仲になってしまい、ついにワーグナーとの間に子供を作ってしまいました。(ちなみに2人共離婚していません)。

1866年妻ミンナが病死するとコジマはビューローと離婚しワーグナーと結婚しました(1870年)。当然ビューローは激怒。ワーグナーと決別し、ブラームス派になってしまいました。そしてコジマの親であるリストもワーグナーと絶縁してしまいました。

ワーグナーとルートヴィヒ

幼い頃に「ローエングリン」を見て以来ワーグナーに心酔していたルートヴィヒ。彼の膨大な借金を肩代わりし、破格の年金を与え、ミュンヘンの一等地・ブリエンナー街に豪華な邸宅を与えるなど破格の待遇をしました。

そして超大作のため上演不可能と言われた「ニーベルングの指輪」のための劇場の新設を提案したほか、ワーグナーの為に音楽院を設立。ワーグナーの為に湯水のごとくお金を使いました。

しかしあまりの金遣いの荒さや、ワーグナーが都合よく資金を入手するため政治に口を出したりした結果、非難が殺到。政府の画策によりワーグナーは一年あまりでミュンヘンから退去する羽目になりました。

ワーグナーの最期

1883年2月13日、ワーグナーはヴェネツィア旅行中に亡くなりました。69歳でした。その死はヨーロッパ中に衝撃を与え、ルートヴィヒ2世は「恐ろしい事だ」と打ち震え、イタリアの作曲家であるジュゼッペ・ヴェルディは「 私は昨日その訃報を読んだとき、あまりの驚きに立ちすくんだまま、しばらくはものも言えずにいました。我々は偉大な人物を失ったのです!彼の名前は芸術の歴史にもっとも巨大な存在として残ることでしょう! 」と書きました。

唯我独尊な人生を歩み、敵も多かったワーグナー。しかしその圧倒的な才能から多くの支持者もいたのでした。

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