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「ライト兄弟」人の悪意に翻弄され続けた悲運の発明家

「ライト兄弟」といえば「動力飛行機」の発明者であり、「世界初の飛行機パイロット」です。

人類史に残る偉業を成し遂げた2人ですが、その人生は順風満帆ではありませんでした。

ライト兄弟誕生と飛行機開発の道へと進んだきっかけ

アメリカは同法協会の高位聖職者の家に生まれた2人。彼らが最初に飛行機に出会ったのは兄のウィルパーが11歳、弟のオービルが7歳の時親が買ってきたコルクと竹と紙でできたおもちゃのヘリコプターでした。

1891年頃からグライダーの開発・研究をしていたドイツの航空パイオニアの一人オットー・リリエンタール

彼は1896年、グライダーが強風にあおられ、15メートルの高さから落下し、事故死。

ライト兄弟はリリエンタールをお手本としていたため、この事故に大きなショックを受け得ました。

そしてこれが、ライト兄弟を飛行機開発の道へと進ませるきっかけになったのです。

飛行機の研究、開発

ライト兄弟は科学的な視点からの分析と確かな技術力、そしてグライダーを用いた数多くの実験によって得た膨大なデータによって飛行機の研究・開発を行いました。

また度重なる実験によってライト兄弟の飛行技術もメキメキと向上。

2人はまずパイロットとして操作できるようになってから飛行機に動力を追加するという「飛行機本体の開発」がメインという他の研究者とは一線を画する方法をとったのです。

ライト兄弟友人動力飛行に成功する

1903年12月17日、ノースカロライナ州キティホークにあるキルデビルヒルズにて、2人が開発した飛行機「ライトフライヤー号」は友人動力飛行に成功。

実験は4回行われ最長で59秒、852フィート(約259.6m)も飛行しました。

彼らの飛行機が画期的だったのは これまでの飛行機がいずれも跳躍しかできなかったのに対し、主翼をねじれさせることによって「飛行自体を制御した」という事でした。

しかし世間の反応は冷たく、アメリカの科学者はこぞって「機械が空を飛ぶことなど不可能」と反発しました。

飛行成功後~ライト兄弟の闘い~

「空気よりも重い機械を用いた飛行の実用技術の開発者」と裁判所に認められたライト兄弟。

飛行技術の特許を取得するも、飛行機が兵器として注目されていた事もあり、多くの嫉妬や争いの対象になりました。

特にライト兄弟を敵視していたのはチャールズ・ウォルコットグレン・カーチスの2人。

チャールズはスミソニアン協会会長であり、民間人であるライト兄弟の偉業を決して認めようとせず、スミソニアン博物館航空史に「ライト・フライヤー号」を展示しませんでした。

カーチスは飛行家で航空会社を設立しており、ライト兄弟と特許を巡っては係争し、ことごとく敗訴していました。

そんなカーチスとウォルコットは手を結び、ライト兄弟をパイオニアの地位から引きずり降ろそうと画策。

1914年5月と6月にサミュエル・ラングレーの機体エアロドロームの再飛行実験を行いました。

再飛行実験は成功。しかしそれはカーチスの手によって多くの改修がされており、全くの別物と言っていいものでした。

実験結果を受けウォルコットはスミソニアン協会にの年次報告に「初めて飛べる飛行機を作ったのはラングレー」と発表。

この時兄ウィルパーは亡くなっており、弟のオービルが 抗議しました。しかし協会は一切無視、それどころか年次報告に執拗に声明文を載せるようになりました。そして世間も世界初飛行に成功したのはラングレーだと思い込む人が増え始めました。

争いの末

ウィルパーの死の4年後、特許争いに疲れたオービルは飛行機製造から身を引きます。陽の目を見ることなく埃をかぶっていたライトフライヤー号ですが、思わぬ救いの手が差し伸べられました。

ロンドンの科学博物館がオービルに展示したいと申し出たのです。オービルは度重なる抗議の無視に諦め、これを受諾しました。

そしてこれがイギリス旅行に来たアメリカ人の目に止まり、それはやがて世論へと発展。スミソニアン博物館もむしできなくなり、会長であったチャールズ・アボットはライトフライヤー号をアメリカに戻すように要請。

オービルの答えは「正しく歴史を修正する事」のみでした。

アボットは妥協点を見出そうとしましたが、オービルは譲りませんでした。ついにスミソニアン協会は声明を発表。ライト兄弟の偉業を認め謝罪。そして 「初めて飛べる飛行機を作ったのはライト兄弟」と声明を発表。

こうしてライト兄弟の名誉は守られ、ライトフライヤー号はアメリカへと戻されたのでした。

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